東京地方裁判所 昭和59年(ワ)9010号 判決 1990年6月19日
主文
一 原告らの請求をいずれも棄却する。
二 訴訟費用は原告らの負担とする。
事実
第一 当事者の求めた裁判
一 請求の趣旨
1 被告は、原告小山武夫に対し金四五五六万円、原告高橋正藏に対し金五五〇万円、原告関野ツイに対し金二〇〇万円及び右各原告に対し右各金員に対する昭和五五年一月一日から各支払済みまで年五分の割合による金員を支払え。
2 訴訟費用は被告の負担とする。
3 仮執行宣言
二 請求の趣旨に対する答弁
1 主文同旨
2 仮執行免脱宣言
第二 当事者の主張
一 請求原因
1 (訴外新東物産株式会社の地位)
訴外新東物産株式会社(以下「新東物産」という。)は、訴外東京穀物商品取引所(以下「訴外取引所」という。)において農産物等の売買受託業務及び媒介等を行うことを目的として昭和三一年九月二七日に設立され同取引所の所属会員となるとともに、昭和四六年一月二五日に農林大臣(「農林省設置法の一部を改正する法律」(昭和五三年法律第八七号)の施行以降は「農林水産大臣」に改名されたが、以下においても単に「農林大臣」という。)から商品取引所法四一条所定の許可を受けて同取引所における商品取引員となった会社である。
2 (原告らの新東物産に対する委託証拠金の預託)
原告らは、それぞれ、昭和五二年一一月から昭和五四年六月までの間に、新東物産に対し、訴外取引所における商品売買取引を委託し、その委託証拠金として次のとおり金員又は株式を預託した。
(一) 原告小山武夫(以下「原告小山」という。)
(1) 昭和五二年一一月一八日
(ア) 三光汽船株式会社の株式 二〇〇〇株
(イ) 三菱重工業株式会社の株式 一万二〇〇〇株
(ウ) 三菱地所株式会社の株式 六〇〇〇株
(エ) 新日本製鉄株式会社の株式 二万八〇〇〇株
(2) 昭和五三年二月二〇日 金三〇〇〇万円
(3) 同年三月二四日
日研化学株式会社の株式 六〇〇〇株
(4) 同年一一月二一日
明治製菓株式会社の株式 一万株
(二) 原告高橋正藏(以下「原告高橋」という。)
(1) 昭和五四年六月一日 金三〇〇万円
(2) 同月一四日 金二五〇万円
(三) 原告関野ツイ(以下「原告関野」という。)
昭和五四年五月九日 金二〇〇万円
3 (原告らの損害)
新東物産は、昭和五四年六月末ころに不渡手形を出し、同年七月二日に訴外取引所から売買取引停止処分を受けて事実上倒産した。
その結果、原告らは、前項のとおり新東物産に対し委託証拠金として預託した金員又は株式の返還を受けることができなくなり、それぞれ次の金額の損害を被った。
(一) 原告小山
原告小山が新東物産に対して預託した前記2(一)の(1)、(3)、(4)の各株式について、昭和五四年六月末日の東京証券取引所における一株の終値はそれぞれ次のとおりであった。
(1) 三光汽船株式会社 金四〇八円
(2) 三菱重工業株式会社 金一六五円
(3) 三菱地所株式会社 金四〇七円
(4) 新日本製鉄株式会社 金一二六円
(5) 日研化学株式会社 金五四九円
(6) 明治製菓株式会社 金三五〇円
したがって、原告小山の損害は、右終値に基づく前記各預託株式の時価総額合計金一五五六万円と前記2(一)の(2)の預託金三〇〇〇万円との合計金四五五六万円である。
(二) 原告高橋
原告高橋の損害は、前記2(二)の(1)、(2)の預託金合計金五五〇万円である。
(三) 原告関野
原告関野の損害は、前記2(三)の預託金二〇〇万円である。
4 (農林大臣の違法な不作為)
(一) 商品取引所法によれば、主務大臣は、商品取引員の純資産額が、当該商品取引員が委託を受けて売買取引する商品市場における上場商品について商品取引所法施行令五条の規定により定められた基準額(以下これを「基準純資産額」という。)を下ることとなったときは、遅滞なく、当該商品取引員に対し当該商品市場における売買取引の委託の停止を命じなければならず(同法四九条二項)、業務の監督上必要があると認めるときは、商品取引所又はその会員に対し、その業務又は財産に関し、参考となるべき報告を求め、又は資料の提出を求めることができ(同法一一九条一項)、委託者を保護するため特に必要があると認めるときは、部下の職員をして、商品取引員の営業所に立ち入り、帳簿、書類その他業務に関連ある物件を検査させることができる(同法一二〇条二項)等の権限及び義務を有するものとされている。
そして、主務大臣の右職権の行使に便ならしめるため、商品取引所法施行規則九条及び各商品取引所理事長あての通達等により、商品取引員はその「純資産額調書」、「月計残高試算表」及び「定期業務報告書」等を所属取引所を経由して定期的に主務大臣ないし主務省に提出すべきものとされている。
(二) しかるところ、新東物産は、昭和四七年ころから経営が悪化し、昭和五一年一月当時には既にその純資産額は訴外取引所における基準純資産額(その額は、昭和五〇年政令第三六三号により金四五〇〇万円と改正され、以後昭和六〇年政令第三一五号による改正まで右金額であった。以下これを「本件基準純資産額」という。)を下る状態にあり、倒産寸前の状況であった。
そこで、新東物産が倒産した場合の訴外取引所の責任問題等を回避すべく、同取引所、全国商品取引員協会連合会、社団法人商品取引受託債務保証基金協会及び新東物産の各幹部らの間で、新東物産についての社長交代、運転資金の融資、粉飾経理の容認等の延命工作の合意がなされ、その後これが実行されたが、結局、新東物産は、前記のとおり昭和五四年七月二日に事実上倒産するに至ったものである。
しかしながら、昭和五一年一月ころ新東物産が経営危機に瀕していたことは当時の商品取引業界周知の事実であり、同年二月から三月ころにかけて商品取引に関する業界新聞・雑誌等においても詳しく報道されていた。
(三) しかるに、本件に関し商品取引法上の主務大臣にあたる農林大臣は、
(1) 昭和五一年一月の時点において、新東物産の純資産額が本件基準純資産額を下る状態にあることが判明していたにもかかわらず、新東物産に対して商品取引所法四九条二項所定の売買取引受託停止命令の権限を行使すべき義務を違法に怠った。
(2) 仮に、右時点において、新東物産が右のような状態にあることが判明していなかったとしても、遅くとも同年三月の時点までには、前記報道等を契機として、商品取引所法一一九条項、一二〇条二項所定の監督権限を行使する等して新東物産の経理状態に関する調査をなすべきであり、そうすれば新東物産が右のような状態にあることが容易に判明し得たにもかかわらず、これを違法に怠り、その結果、新東物産に対して前記売買取引受託停止命令の権限を行使すべき義務を違法に怠った。
5 (被告の責任)
仮に、農林大臣が、右の時点において新東物産に対し前記売買取引受託停止命令の権限を行使していたならば、原告らは、新東物産に対しそれぞれ前記2のとおり商品売買取引を委託して委託証拠金を預託することはなく、前記3の各損害を被ることもまたなかったものである。
したがって、原告らの右各損害は、被告の公権力の行使に当たる公務員である農林大臣の職務執行上の前記4のような違法な不作為と相当因果関係にたつものというべきであり、被告は、原告らに対し、右各損害を賠償すべき義務がある。
よって、原告らは、被告に対し、国家賠償法一条一項により、それぞれ前記3の損害及びこれに対する不法行為の後である昭和五五年一月一日から支払済みまで民法所定の年五分の割合による遅延損害金の支払を求める。
二 請求原因に対する認否
1 請求原因1の事実は認める。
2 同2の事実のうち、原告らがそれぞれの主張の日時にその主張にかかる金員又は株式を新東物産に対し交付したことは認め、その余は否認する。
3 同3の事実のうち、新東物産が昭和五四年六月末ころに不渡手形を出し同年七月二日に訴外取引所から売買取引停止処分を受けたこと及び原告小山が新東物産に対して交付した各株式の同年六月末日の東京商品取引所における一株の終値がそれぞれ同原告の主張する金額であったことは認め、その余は否認する。
4 (一)同4の(一)の各法令及び通達等の存在及び内容は認める。
(二) 同4の(二)のうち、本件基準純資産額の金額については認め、その余の事実は不知。
(三) 同4の(三)のうち、本件に関し商品取引所法上の主務大臣にあたる農林大臣が新東物産に対して同法四九条二項所定の売買取引受託停止命令の権限及び同法一一九条一項、一二〇条二項所定の監督権限をいずれも行使しなかったことは認め、その余の事実は否認し、主張は争う。
5 同5の事実は否認し、主張は争う。
三 被告の主張
1 原告らが新東物産に対して商品売買取引を委託した事実はなく、請求原因2において主張する金員又は株式はいずれも委託証拠金として預託されたものではなく新東物産に対する貸付けとして交付されたものであるにすぎない。
しかるところ、商品取引所法四九条二項、一一九条、一二〇条等の趣旨・目的は、商品取引の大衆化に対応するため、当該商品取引業界に対する寄与という基調の下に委託者を保護するというところにあるのであって、委託者以外の金銭の貸主等の保護をその趣旨・目的とするものでないことは明らかであるから、農林大臣は原告らに対して右各条項所定の権限を行使すべき職務上の法的義務を負うものではなく、したがって、その不行使の違法を論じる余地もないものというべきである。
2 また、仮に、原告らが委託者であり、請求原因2において主張する金員又は株式が委託証拠金として預託されたものであったとしても、そもそも右預託の当時新東物産の純資産額が本件基準純資産額を下る状態にあったかどうかは明らかではなく、右は原告らの一方的な主張にすぎないうえ、仮に真実は新東物産が右のような状態にあったものとしても、新東物産から訴外取引所を経由して農林大臣に提出された「純資産額調書」及び「月計残高試算表」上は、昭和五四年六月に至るまでの間、その純資産額は本件基準資産額を下る状態にはなく、また、他の右状態を証する資料も存せず、農林大臣において新東物産の純資産額が本件基準純資産額を下る状態にあることは明らかではなかったのであるから、農林大臣が新東物産に対して商品取引所法四九条二項所定の売買取引受託停止命令の権限を行使しなかったことに違法はない。
3 さらに、原告らは、農林大臣が商品取引所法一一九条一項、一二〇条二項等所定の監督権限を行使していれば、新東物産の純資産額が本件基準純資産額を下る状態にあったことが容易に判明したのであるから、農林大臣が右監督権限の行使を怠ったことが違法である旨主張するが、右監督権限をいつ、いかなる範囲で行使するかは、その法文上からも明らかなように、農林大臣の合理的判断に基づく自由裁量に委ねられているところであって、右監督権限の不行使が、同法が目的とする委託者保護の見地から著しく合理性を欠くものと認められる場合は格別、不作為の違法は問題とはならない。
ところで、商品取引所は、業者の自治により運営される関係業者のための私法人なのであり、本来自治的会員組織の中で自己の責任において運営されることを原則とする。取引員たる会員に対する農林大臣の監督権限の行使すなわち私的経営に対する監督行政庁の介入は、公益保護のため必要最小限に行われるべき性質のものなのである。
訴外取引所を経由して農林大臣に提出された関係書類上、純資産額に問題はなく、訴外取引所においても営業成績は良好で、資金繰りの点では問題があるものの改善が可能であると把握されていた新東物産に対し、特に監督権限を行使しなかったとしても、不作為の違法を問われるものでないことは明らかである。
第三 証拠<略>
理由
一 請求原因1(訴外新東物産株式会社の地位)の事実、同2(原告らの新東物産に対する委託証拠金の預託)の事実のうち原告らがそれぞれの主張の日時にその主張にかかる金員又は株式を新東物産に対し交付したこと、同3(原告らの損害)の事実のうち新東物産が昭和五四年六月末ころに不渡手形を出し同年七月二日に訴外取引所から売買取引停止処分を受けたこと及び原告小山が新東物産に対して交付した各株式の同年六月末日の東京証券取引所における一株の終値がそれぞれ同原告の主張する金額であったことは、いずれも当事者間に争いがない。
二 原告らは、右各金員又は株式がいずれも原告らが新東物産に対し訴外取引所における商品売買取引を委託したことに基づく委託証拠金として預託したものである旨主張するが、この点はさて措き、まず請求原因4(農林大臣の違法な不作為)の主張について判断する。
1 請求原因4のうち、本件に関し商品取引所法上の主務大臣にあたる農林大臣が新東物産に対して同法四九条二項所定の売買取引受託停止命令の権限及び同法一一九条一項、一二〇条二項所定の監督権限をいずれも行使しなかったことは、当事者間に争いがない。
そこで、以下、農林大臣の右不作為の違法性に関する請求原因4の(三)(1)、(2)の各主張について、同(一)、(二)の主張も含め順次検討する。
2 請求原因4の(三)(1)の主張について
(一) 商品取引所法四九条二項によれば、主務大臣は、商品取引員の純資産額が、基準純資産額を下ることとなったときは、遅滞なく、当該商品取引員に対し当該商品市場における売買取引の受託の停止を命じなければならないものと規定されている。
そして、右規定の法文によれば、主務大臣としては、右事情の存することが判明した場合には右命令権限を行使すべき義務があり、その裁量の余地は原則として認められないことが明らかであるから、主務大臣において右事情の存することが判明していながら右命令権限を行使しないことは右規定に反し違法であるといわなければならない。
(二)(1) そこで、これを本件について検討するに、<証拠略>並びに弁論の全趣旨によれば、新東物産は、訴外取引所から昭和五四年六月末日ころに立入監査を、引き続いて同年七月二日に売買取引停止処分をそれぞれ受け事実上倒産するに至ったものであるが、昭和五一年一月末ころその経営再建のため任期途中の訴外神部茂から訴外高橋茂へ社長が交代した以前から粉飾経理がなされており、右社長交代当時には既にその純資産額は本件基準純資産額を下る状態にあり、その後もその状態が改善されることのないまま右立入監査に至ったことが窺われないではない。
しかしながら、仮に新東物産の純資産額が真実右のような状態にあったとしても、農林大臣において昭和五一年一月当時はもちろんその後右立入監査に至るまでにこれが判明していたものと認めるに足りる的確な証拠はない。
(2) もっとも<証拠略>中には、昭和五一年一月当時農林省(前掲「農林省設置法の一部を改正する法律」の施行以後は「農林水産省」に改名されたが、以下においても単に「農林省」という。)において新東物産の右のような状態が判明していたものであるかのような供述部分がそれぞれ存するが、右各供述部分については、いずれも同人らの推測に基づくものであるにすぎず、証人堤恒雄の反対趣旨の証言に照らしても採用し難い。
(3) また、<証拠略>によれば、「経済&相場」なる商品取引に関する業界雑誌の昭和五四年九月号中において、昭和五一年一月末ころ農林省の堤商業課長が業界首脳らとともに新東物産の倒産回避のための善後策を検討した旨の内容の論文が掲載されていることが認められ、<証拠略>によれば、その後右記事の執筆者である訴外藤野洵が原告小山に対し右記事内容の信憑性を保証する趣旨の発言をしていることが窺われるが、<証拠略>に照らすときは、右記事内容が真実であるとは即断し難い。
(4) さらに、<証拠略>並びに弁論の全趣旨によれば、新東物産が資金繰りの悪化等から経営危機に陥ったため昭和六一年一月末ころ前記社長交代に至ったことについては訴外取引所等から農林省に対して事前事後に報告がなされていたこと、その後も訴外取引所から農林省に対して新東物産の受託業務の収支、経常収支、資金繰り等の財務内容の改善状況が定期的に報告され、これを受けて農林省は訴外取引所に対して新東物産を今後とも十分指導監督するよう指示していたこと、一方前記社長交代により新たに新東物産の社長に就任した訴外高橋茂からも農林省に対して年に数回程度新東物産についての近況的な報告がなされていたこと、さらに昭和五三年末ころには農林省の担当官から新東物産に対して後日の許可更新に向けて円滑に更新が受けられる態勢がとられているかにつき質問がなされたこと等の諸事実が窺われる。しかしながら、本件全証拠によっても、右報告等の際に新東物産の純資産額が本件基準純資産額を下る状態にあるというような内容の情報が農林省に対して提供されたものとまでは認め難いところ、右の諸事実を総合しても昭和五四年六月末ころの前記立入監査に至るまでに農林大臣ないし農林省において新東物産が右のような状態にあることが判明していたとまでは容易に推断し難い。
(三) したがって、農林大臣において新東物産が右のような状態にあることが判明していたことを前提とする原告らの請求原因4の(三)(1)の主張は、理由がない。
3 請求原因4の(三)(2)の主張について
(一) 商品取引所法一一九条一項によれば、主務大臣は、業務の監督上必要があると認めるときは、商品取引所又はその会員に対し、その業務又は財産に関し、参考となるべき報告を求め、又は資料の提出を求めることができるものとされ、また、同法一二〇条二項によれば、主務大臣は、委託者を保護するため特に必要があると認めるときは、部下の職員をして、商品取引員の営業所に立ち入り、帳簿、書類その他業務に関係のある物件を検査させることができるものと規定されている。さらに、商品取引員に対する資産内容の充実及び業務運営の適性化等についての指導監督に資するため、商品取引所法施行規則九条及び各商品取引所理事長あての通達等により、商品取引員はその「純資産額調書」、「月計残高試算表」及び「定期業務報告書」等の財務関係書類を所属取引所を経由して定期的に主務大臣ないし主務省に提出すべきものとされている(右内容の通達の存在は当事者間に争いがない。)。
したがって、主務大臣において、ある商品取引員につき、その純資産額が基準資産額を下る状態にあることが判明していなかった場合であっても、右財務関係書類を審査しさらには商品取引所法一一九条一項、一二〇条二項所定の監督権限を行使する等してその財務内容についての調査をしていたならば、右のような状態が容易に判明し得たような場合においては、右商品取引員に対し右のような調査をなさなかったこと及びその結果として同法四九条二項所定の売買取引受託停止命令の権限を行使しなかったことについて、主務大臣に職務執行上の違法な義務懈怠があったものと評価せざるを得ない場合の存することは否定できない。
しかしながら、商品取引所法の右監督権限については、その規定の法文に鑑みれば、これを行使するか否か及びその行使の時期・方法等は原則として主務大臣の専門的判断に基づく合理的裁量に委ねられているというべきであるから、右監督権限の不行使が国家賠償法一条一項の適用上違法の評価を受けるのは、具体的事情の下において、主務大臣に右監督権限が付与された趣旨・目的に照らし、その不行使が著しく不合理と認められる場合に限られるものと解するのが相当である。
(二)(1) そこで、これを本件について検討するに、なるほど、前記2の(二)(4)のとおり、新東物産が資金繰りの悪化等から経営危機に陥ったため昭和五一年末ころ前記社長交代に至ったことについては訴外取引所等から農林省に対して事前事後に報告がなされていたことが窺われるところ、かかる任期途中における社長交代はいわば異例の事態といえること、<証拠略>及び弁論の全趣旨によれば、同年二月から三月ころにかけて商品取引に関する業界新聞・雑誌等において新東物産を含むいわゆる「神部グループ五社」が当時極めて多額の負債を抱えて倒産の危機に瀕し粉飾経理までなされていた等の内容の記事が報道されたことが認められ、右記事内容は商品取引業界においては比較的広く知られた事情であったことが窺われること等に鑑みれば、農林大臣としては、右報告ないし報道等を契機として、新東物産について、その財務内容に疑問を抱き、前記規則及び通達等所定の財務関係書類の審査はもちろん商品取引所法上の前記監督権限も行使する等してその財務内容の調査をなすべきであったと思料され得ないではない。
(2) しかしながら、他方、
(ア) <証拠略>並びに弁論の全趣旨によれば、商品取引員の財務内容については第一次的に所属取引所による私的自治的な指導監督が常時行われており、前記規則及び通達等も所定の財務関係書類を主務大臣ないし主務省に提出するに当たっては所属取引所を経由すべきことを命じ、したがって、主務大臣の下に提出される財務関係書類は既に所属取引所による審査を経たものであることを制度上の前提としているところ、昭和五四年六月末ころの前記立入監査に至るまでに新東物産から訴外取引所を経由して農林大臣に提出された右財務関係書類上、本件基準純資産額を下るような内容のものはなかったものと認められること、
(イ) <証拠略>並びに弁論の全趣旨によれば、新東物産における前記社長交代については農林省に対してはあくまでその経営再建のための措置として報告がなされていたうえ、新たに社長に就任した訴外高橋茂は商品取引業界においては当時その経営手腕を比較的高く評価されていた人物であったこと、及び昭和五三年末ころ農林省の担当官から新東物産に対して後日の許可更新に向けて円滑に更新が受けられる態勢がとられているかにつき質問がなされた際にも、新東物産側からは訴外新東通商株式会社との合併等によって対応可能である旨の説明がなされていたことがそれぞれ窺われること、
(ウ) <証拠略>並びに弁論の全趣旨によれば、当時、農林省は、各商品取引所理事長あての通達等によって各商品取引所が所属商品取引員に対しその財務内容の健全化等について指導監督をするよう一般的に要請していたものであるが、特に前記社長交代後の新東物産については、右にとどまらず、その受託業務の収支、経常収支、資金繰り等の財務内容の改善状況を訴外取引所等から定期的に報告させたうえで、訴外取引所に対し新東物産を今後とも十分指導監督するよう指示していたことが認められるのであって、農林大臣が新東物産に対する指導監督を放置していたものとはいえないこと、
右(ア)ないし(ウ)のような諸事情に加えて、本件においては、その全証拠によっても、農林大臣ないし農林省において、昭和五四年六月末ころの前記立入監査に至るまでに、新東物産の財務内容についての訴外取引所による右(ア)のような指導監督ないし審査が期待し難いものと合理的に疑うべき事情ないし情報(例えば、仮に、原告らが請求原因4の(二)において主張するような新東物産についての粉飾経理の容認等の合意が真実なされていたとすれば、それを窺わせる事情ないし情報など)を収集・認識していたものとは認め難いこと、及び商品取引所法上の前記監督権限の行使はいわば私的経営に対する監督行政庁の介入であるうえ、特に同法一二〇条二項所定の立入検査については検査を受ける商品取引員の社会的信用を害しその経営に支障を来す結果となるおそれもあることから、相当な根拠に基づき慎重に行使されることが望ましいこと等も総合配慮するならば、前記(1)の諸事情をもって、昭和五四年六月末ころの前記立入監査に至るまでに農林大臣において新東物産又は訴外取引所に対し右監督権限を行使しなかったことがその趣旨・目的に照らして著しく不合理であったとまでは、いまだ断じ難いものといわざるを得ない。
(3) そして、他に、農林大臣において本件に関し右立入監査に至るまでに収集・認識していた事情ないし情報の下において前記規則及び通達等所定の財務関係書類の審査ないし商品取引所法上の監督権限の行使等による新東物産の財務内容についての調査につき職務執行上の違法な義務懈怠があったものと認めるに足りる証拠はない。
(三) したがって、農林大臣に右のような義務懈怠があったことを前提とする原告らの請求原因4の(三)(2)の主張は、その余の点について判断するまでもなく理由がない。
4 以上の次第で、本件において農林大臣に原告らが請求原因4で主張するような職務執行上の違法事由が存したものということはできない。
三 よって、原告らの本訴請求は、その余の点について判断するまでもなく、いずれも理由がないからこれを棄却することとし、訴訟費用の負担につき民訴法八九条、九三条一項本文を適用して、主文のとおり判決する。
(裁判長裁判官 原健三郎 裁判官 土居葉子 裁判官 寺本昌広)